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Channel: 美少女レスラー桜庭愛♪
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民主主義の発祥は群馬にあり

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戦国時代の上野(群馬県)は関東管領山内上杉家が平井城(吉井町)を居城としていたが、北条の関東遠征軍に負け当主、上杉憲政は越後の長尾家に亡命する。その関東管領職の筆頭家老であった長野家は当主の弱腰に苦渋したが上野一帯をよく治め北条軍、武田軍、越後の長尾家(のちに山内上杉家が位を譲ったため上杉家に改姓)、長野業正は一帯の郷士を「和」によって組織し戦国時代にあってはじめての民生国家が誕生する。
「箕輪衆」と呼ばれる武士団は上泉城主・上泉信綱に剣術を教わり、一騎当千の兵となり、四方から攻め寄せてくる北条軍を打ち負かし、長野から迫る武田軍を幾度も追い返した。
 
戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、上杉憲政が越後へ亡命した後はその重臣長野氏が残り、相模を本拠とする北条氏甲斐武田氏越後上杉氏(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。このようななかで長野氏は、上杉氏の後ろ盾を得ていた。信業の子長野業正は箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。1561年(永禄4年) 業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。1565年(永禄8年)頃には箕輪城は孤立していき、翌1566年(永禄9年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。
箕輪衆と箕輪城はよく戦い、よくもったといえる。
群馬県屈指の名城であり、広大な城塞は見るものを圧巻とさせる。
この箕輪城。身分の高いものと身分の低いものとが別の門で行き来していたという。
(この城門も復興の対象であり、平成29年ごろに二つの城門と大堀切にかかる太鼓橋が復元予定)
 
城守の老僕と愛は知り合いとなり、何度か話を聞くに・・・
「抜け穴があったと聞く。そこを業盛の妻を逃がすために上泉信綱と門弟2名は護衛として上野を逃れたとある」
 
信玄に「この剣術は万人の力となるために振るいたい」と真摯に受け開け、家臣となることを拒否し、
信玄は上泉伊勢守信綱の心に打たれ、流浪の旅を許したという。
 
信玄は信綱を友と呼び、信綱もまた信玄の知己となった。
このとき、

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